「有明海の豊かな海はどうして悪化したか」(その4)
「有明海の豊かな海はどうして悪化したか」諌早湾干拓事業を中心に物理的観点から
宇野木 早苗
(元東海大学教授、元理化学研究所主任研究員)
目次
- はじめに
- 諌早湾干拓事業とは
- 堤防締切による有明海の顕著な潮汐の減少
- 潮汐減少に伴う意外に多い有明海の干潟喪失面積
- 堤防締切が有明海の潮流に及ぼす影響
- 埋立干拓によってなぜ潮汐と潮流は減少するか
- 信頼度が乏しい環境影響評価書の潮汐潮流計算
- 潮汐・潮流・干潟の減少が有明海の環境に与える悪影響
- 河川流量の減少が有明海の環境を悪化させている可能性
- むすび ― 有明海の環境保全のためには総合的視点が不可欠
8.潮汐・潮流・干潟の減少が有明海の環境に与える悪影響
海面の単位面積当たりの漁獲量では、有明海は日本の沿岸漁場の中で最高水準にあるといわれます。これはその基礎として、海域の生物生産力が非常に高いことを意味します。また地形的・社会的条件から有明海も、東京湾、伊勢湾、瀬戸内海などと同じく、富栄養化に伴なう赤潮に悩まされるはずですが、従来はそれほど問題になりませんでした。
しかし近年事情が変わってきました。付図10に最近の有明海の漁業生産量と赤潮の発生件数の推移が示されてあります。漁業生産量は諌早湾の干拓事業が始まってまもなくの1990年ころから、年々減少の歩みを続けています。赤潮は堤防締切後の1998年から発生件数が増えています。
これを解く鍵として、以前にはなぜ有明海が上に述べたように豊かで生物生産に適していたかを考えます。これは文献7に詳しく述べてありますが、その1つの大きな理由として、有明海の潮汐潮流が非常に大きく干潟が発達していることが上げられます。
有明海は、6節末に述べた理由でわが国で最も潮汐が発達し、最奥部では大潮差が5mあるいはそれ以上になることがあります。また有明海では広大な泥状の干潟の広がりから理解できるように、河川から流入する豊富な粘土粒子と栄養物質によって、大量のデトリタス(浮泥やその沈殿)が生産されています。栄養分を多く含む多量のデトリタスは、通常の内湾では底に溜まって生物の生存が困難な貧酸素の底層水と汚濁した海底をもたらすことが多いのです。
ところが有明海では発達した潮汐・潮流に伴なって、栄養分を多く含むデトリタスはよくかき混ぜられ、また干潮時には干上がり、その間に豊富な酸素を供給されるので、生物の生産に効率的に利用され、きわめて高い生物生産とそれに基づく最高水準の漁業生産が可能になったのです。そして豊かな生態系に支えられた干潟の浄化能力も加わって、海域は富栄養化することもなく、赤潮も発生しにくいのです。干潟がいかに大きな海域の浄化能力をもっているかは、最近広く認識されるようになりましたが、その詳細は文献11を見て下さい。
有明海で漁業生産が低下してきたことや赤潮の発生件数が増えた理由は、複合的で単純でないでしょう。だが上に述べた有明海の特性を考慮すると、諌早湾の干拓事業が進行して、潮汐が減少し、このため諌早湾ばかりでなく、これに加えて有明海沿岸各地で干潟が多量に失われたことが、有明海の環境を悪化させた重要な要因であることは確からしく思われます。
なお堤防締切後の地形効果で、部分的には流れが強まったところもありますが、潮汐の減少に伴なって全般的には弱くなっています。流れが小さくなると物質の移動範囲は狭くなります。また混合作用も弱まるので、上層に軽い水、下層に重い水が位置する密度成層が強まります。以上の結果、海水は停滞しやすくなり、貧酸素を招き水質が悪化しやすい傾向になります。ただし締切後の潮流の変化が、水質、底質、生態系などにどのように、またどの程度に影響するかについての議論は、今後の詳しい調査と検討が必要です。
9.河川流量の減少が有明海の環境を悪化させている可能性
例をあげると三河湾は、汚濁負荷が東京湾の1/10程度に過ぎないのに、東京湾と並んでわが国で最も水質汚濁が激しい内湾です。その1つの大きな原因として、豊川用水事業(1968年完成)により多量の取水が行なわれたことが指摘されます(文献12)。ところが1980年から開始されて現在進行中の豊川総合用水事業によって、さらなる取水が行なわれることになり、三河湾における一層の環境の悪化が憂慮されます。このような例は多くあります。
取水によって河川流量が減ると、なぜ海域の環境が悪化するのでしょうか。河川水が流入する内湾では、模式的に付図11に示すような上層は流出、下層は流入の鉛直循環が発達します。これは河川水の流入のため軽い海水が存在する湾奥部と、重い海水が存在する湾口部との間に不安定が生じて、重い外海水は下層を通って湾奥に、軽い湾奥水は上層を通って湾口に向かう流れが生じるからです。このとき全体として位置エネルギーが減少し、減少部分が運動エネルギーに転換されるので大きな流速が生まれます。この様子は付図12の実験を考えると理解しやすいでしょう。さらに内湾の場合には、上下層の流れと共に乱れによって下層水を上層に取り込む連行作用が加わり、これらの過程が継続して行なわれるため、付図11に示すような強い循環流が常時内湾に形成されるのです。
そこでこの循環に伴なう流量は、河川流量の何倍であるかを調べます(文献13)。東京湾、三河湾、大阪湾、広島湾などにおいては、状況によって変化しますが、数倍から、10倍、20倍、さらにそれ以上にもなっています。したがって河川で取水が行なわれると、湾内の循環は取水量の上記に得た倍数に及ぶ大きな流量の減少を招き、循環が著しく弱まることになります。この鉛直循環は湾水の交換や物質の循環に本質的に重要な役割を果たしていますから、これの衰弱が湾内の環境の悪化を招くことは当然です。なお実際は水平循環についても考慮しなければなりませんが、多くの場合鉛直循環が主体です。
有明海については、実は筆者はデータもなく調査もしていないので、現時点ではこの問題をきちんと指摘することはできません。ただ、筑後川河口堰に関する当局の、環境の保全には十分注意しています、というPR用パンフレット(文献14)をたまたま開いたとき、筑後川の取水は有明海の環境に悪影響を与えている可能性が強いと感じたので、このことを報告します。
付図13の上段に示す図は、筑後川大堰より下流のNo.1測点(挿入図参照)における塩分の経年変化を、上記パンフレットから読みとって描いたものです。1980年始めから明らかに塩分が低下し続けていることが分かります。塩分単位の0/00は1/1000の意味です。
いま河川水の塩分をS,河川の影響が無視できる湾外の塩分をS0とすれば、河川水に含まれる淡水の割合は R=(S0 - S)/ S0 で与えられます。そこで上段の値と、観測されたS0の値を用いて淡水含有率を求めると、付図13の下段に示す経年変化が得られます。
1980年の始めにはその場所の水の中で、淡水は90%を占めていたのに、1990年には64%と1/3も淡水が減っています。これは河口堰から海へ流れてくる河川水量が減少していることを推測させます。そうであれば前に述べた事情から、有明海の環境にかなり悪い影響を与えているのではないかと心配です。
今後は筑後川を含めて有明海に注ぐ多くの河川について、上流側の値ではなく、実際に海に流入している河川流量を把握して、有明海の環境変化との関係を明らかにすることが、有明海の環境保全に非常に重要であると思います。また河川流量の大小が、海域の環境に密接に関係していることを考えたとき、河川からの取水はできる限り避けることが、パンフレットが目指すように環境を保全する道であることを強調しておきます。
10.むすび―有明海の環境保全のためには総合的視点が不可欠
これまでは諌早湾の干拓事業や筑後川からの取水に注目して、これらが有明海に及ぼす悪い影響について考えてきました。しかし有明海の環境を保全するためには、総合的な視点が必要です。例えば埋立の場合にはその面積がよほど大規模でない限り、この事業で明白な悪影響が出ると判断するのは困難で、多くの場合は現状に比べて影響は少ないと結論されて事業が認められます。(諌早湾干拓の場合には大規模であってもそうでした。)
かくしてその次の事業も同様に認められ、つぎつぎに埋立が進み、結局付図2に示したように東京湾、伊勢湾における潮汐・潮流の減少を生じ、その他の要因と重なって汚濁の海が招来されました。また瀬戸内海におけるように、目の前の海域にのみ注目していると、全体がひどい状態になることは、「はじめに」の節で述べたところです。
有明海においても、諌早湾の干拓が最も大規模ですが、海域の環境に影響を与えると見なされる事業や事件がいろいろ存在します。筑後川河口堰の建設と取水、熊本新港の建設、その他中小規模の開発が各地で行なわれているはずです。例えば干潟面積の推移を見ると(文献7)、安井ら(1954年)によれば238平方kmであったものが、西海区水産研究所(1981年)によれば231平方km、環境庁(1994年)によれば207平kmになるということからも、以上のことが推測されます。さらに雲仙普賢岳の噴火による海域への大量の土砂流出や、かっての三池炭坑での活発な石炭採掘によるところの広範囲な海底陥没などのため、かなりの地形変化が生じていると考えられます。
したがって有明海全体の環境の改善と保全は、特定の事業、特定の事件、特定の場所だけを見ていては、決して図れないことが分かります。それゆえ海と川を含めて有明海の環境のあるべき全体像を明確にして、環境影響評価に際しては、その全体像に照らして個々の事業の影響を判断するという総合的視点が重要になります。しかし残念ながら現在はそれが欠けています。
事業ごとに、また県ごとに考えていては将来禍根を残すは必定です。このためには瀬戸内海関係の11府県および政令都市の首長が集まって瀬戸内海臨時措置法の制定に動いたように、有明海周辺の県が協力して、例えば「有明海環境保全法」とでもいうべき法律の制定を考えることも必要と思います。特定の事業に執着して、有明海の環境が次第に悪化する現状は、将来の自然の豊かさと子孫の幸福を望むとき残念でたまりません。
謝辞:資料その他についてご厚意を賜った日本自然保護協会の吉田正人さん、程木義邦さん、西條八束さん、長崎大学の東幹夫さんと近藤寛さん、気象庁海洋情報課と長崎海洋気象台の関係者の皆さん、および松橋隆司さんに深く感謝いたします。
参考文献
1.東幹夫:諌早湾大規模干拓計画の経緯と環境アセスメントの問題-潮受堤防締切前後の底生動物相の変化にふれて-、海の研究、8巻、1999年、56-61頁。
2.九州農政局:諌早湾干拓事業計画(一部変更)に係る環境影響評価書、1991年。
3.速水頌一郎・宇野木早苗:瀬戸内海における海水の交流と物質の拡散、第7回海岸工学講演会講演集、1970年、385-393頁。
4.日本自然保護協会:諌早湾潮受堤防内外の底質・水質の現状(中間報告)、2001年、19頁。
5.宇野木早苗:感潮域の水面変動、河川感潮域-その自然と変貌-(西條・奥田編)、名古屋大出版会、11-45頁。
6.宇野木早苗・小西達男:埋め立てに伴う潮汐・潮流の減少とそれが物質分布に及ぼす影響、海の研究、7巻、1998年、1-9頁。
7.佐藤正典・田北徹:有明海の生物相と環境、有明海の生きものたち(佐藤編)、海遊舎、2000年、10-35頁。
8.長崎県県民生活環境部環境保全課:第16回諫早湾干拓地域環境調査委員会資料、2000年。
9.宇野木早苗・久保田雅久:海洋の波と流れの科学、東海大学出版会、1996年、全<356頁。
10.宇野木早苗:沿岸の海洋物理学、東海大学出版会、1993年、全672頁。
11.佐々木克之:干潟域の物質循環、沿岸海洋研究ノート、26巻、1989年、172-190頁。
12.西條八束監修・三河湾研究会編:三河湾―環境保全型開発批判、八千代出版、全312頁。
13.宇野木早苗:内湾の鉛直循環流量と河川流量の関係、海の研究、7巻、1998年、283-292頁。
14.水資源開発公団筑後大堰管理所:筑後大橋―環境調査のあらまし、1992年、全28頁。
附録 干潟の喪失面積
付図5において、
H:潮汐の振幅 B:干潟の幅
h:潮汐振幅の減少量 2b:干潟の減少幅
L:干潟の海岸沿いの長さ S=BL=干潟の総面積
比例関係から 2H/B=h/b、ゆえに 2b=Bh/H
したがって、
干潟の喪失面積=2b×L=(Bh/H)×(S/B)
=S×(h/H)
= 干潟総面積×潮汐の減少率