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「有明海の豊かな海はどうして悪化したか」(その2)

2001.04.24
解説

「有明海の豊かな海はどうして悪化したか」諌早湾干拓事業を中心に物理的観点から

宇野木 早苗
(元東海大学教授、元理化学研究所主任研究員)


目次

  1. はじめに
  2. 諌早湾干拓事業とは
  3. 堤防締切による有明海の顕著な潮汐の減少
  4. 潮汐減少に伴う意外に多い有明海の干潟喪失面積
  5. 堤防締切が有明海の潮流に及ぼす影響
  6. 埋立干拓によってなぜ潮汐と潮流は減少するか
  7. 信頼度が乏しい環境影響評価書の潮汐潮流計算
  8. 潮汐・潮流・干潟の減少が有明海の環境に与える悪影響
  9. 河川流量の減少が有明海の環境を悪化させている可能性
  10. むすび ― 有明海の環境保全のためには総合的視点が不可欠

2. 諌早湾干拓事業とは

この事業の概要は付図1に示してあります。諌早湾は有明海北部の長崎県に湾入した付属湾です。この事業は広大な干潟を含む諌早湾西側約3500ha(ヘクタール)もの海域を、全長7.05km の堤防で締めきって諌早湾から切離するものです。そして内部面積の中の約 1800haを干拓陸地化し、残り約1700ha淡水化します。なおこの堤防には2つの排水水門があり、その幅は北部水門が 200m、南部水門が50mです。この事業は1988年に着手され、1997年4月にはついに多方面の反対を押し切って堤防が閉鎖されるに至りました。締切の状況をテレビで見て、激しいショックを受けた人は筆者を含めて非常に多いと思います。

淡水池の水位はT.P.(東京湾平均海面)のマイナス1mになるように管理されています。すなわち背後地からの流出によって淡水池の水位がマイナス1m以上に上昇したときは、外側海域の水位が内側より低くなった干潮時に水門を開けて排出し、内部水位がマイナス1mになるように水門を操作しています。この目的を兼ねるために内部水域は調整池とよばれます。なおこの水門操作のために、調整池内では軽い淡水の下に重い海水が広がって密度成層が見られます。この密度成層に伴なう海水の停滞、堤防外側における潮流の激減、および調整池からの汚濁水の排出などのため、堤防内外の水質・底質は著しく悪化していると報告されています(例えば文献4)。

図1.諫早湾干拓事業計画

この巨大事業の総事業費は 2,490億円と見積もられ、2001年までの事業費は2,224億円にも達しています。それではこの巨大事業の目的は何でしょうか。農水省資料によれば、先ず第1に高潮・洪水・常時の排水不良等に対する防災機能の強化であり、第2に大規模で生産性の高い農地の造成であります。

防災機能の強化に関しては、締切堤防が必要な理由を事業当局はいろいろ並べていますが、これまで伊勢湾台風以来40年以上沿岸・河川感潮域の自然災害を調べてきた筆者の経験からいえば(文献5と10)、いまの場合は農耕地や居住地を囲む既存堤防を補修強化すれば十分です。これはいますぐ実施できることで、経費は上記巨大事業費のほんのわずかな部分で済むはずです。堤防締切を実現するために、既存堤防の補修強化を意識的になおざりにして来て、いまさら防災機能の強化を第1目的に掲げるのは、いかにも無理なこじつけといわざるを得ません。

第2目的の巨額経費をかけての農地造成は、現在ではその必要性が多くの人に理解し難いことです。なお文献1によれば、過去46年間も経過した諌早湾干拓事業の歴史は、客観的状況の変化に応じて当初の米作りから、畑作や牧畜、一部工業用地転用、都市浄水源や工業用水を含む水資源確保、さらに洪水・高潮などの災害防止まで、その目的がめまぐるしく変転したということで、本事業の目的のあいまいさがうかがわれます。

有明海が豊かで恵み多い美しい海であるためには、島根県中海干拓事業が中止されたように、いまは本事業を中止して水門を常時開けることが最低限必要であり、有明海の環境改善の出発点になります。事業関係者が子孫のために、最も賢明な道をとられることを望みます。なお水門を開放すれば、堤防周辺海域は汚濁水のため環境が悪化しますが、それは一時的なもので、やがて有明海の環境改善につれて該当海域も恵み多い海になってまいります。

3. 堤防締切による有明海の顕著な潮汐の減少

以前に筆者たちは、埋立が盛んに行なわれた東京湾、伊勢湾、大阪湾などにおいては、埋立による湾の面積の減少に伴なって、年々潮汐が小さくなっていることを明確に示し、この結果は海域の環境の悪化を加速させると述べています(文献6)。付図2はその例です。両湾における大潮のときの満潮と干潮の水位差(大潮差)の経年変化が描かれていますが、この傾向がよく認められます。干拓が進行している有明海においても同様なことが考えられます。

図2.東京湾と名古屋港における大潮差の経年変化、文献6による

有明海の場合に、諌早湾の北方に位置する気象庁所属の大浦検潮所(位置は付図 8参照)における大潮差の経年変化を、付図3の右図に示しておきました(文献7に最近の値を追加)。変動はかなりありますが、近年潮汐が減少している傾向が認められます。なお内湾の潮汐の性質として、埋立干拓による潮汐の減少の程度は一般に湾奥で大きく、湾口に近づくほど小さくなります。そして外海に接した湾口では、外海の潮汐の影響を強く受けてほとんど変化はありません。有明海の湾口に位置する口之津検潮所における大潮差の経年変化が、付図3の左図に描かれていますが、このことが認められます。

図3.口之津と大浦における大潮差の経年変化、文献7に最近の直を追加

ただし観測データから求めた大潮差には、潮汐現象以外の要因も付け加わっている可能性があるので、付図3のように変動が大きい傾向があります。純粋に潮汐の変化を見るには、潮汐の調和分析の方法で求めた分潮(文献10参照)で調べるのが適当です。潮汐の現象は、半日周期、1日周期、半月周期など多数の周期成分からなっていて、これを分潮といいます。九州付近で最も重要な分潮は、月に起因する半日周期のM2分潮(主太陰半日周潮)で、次に大きいのは太陽に起因する半日周期のS2分潮(太陽半日周潮)です。

付図4は、大浦におけるM2分潮の振幅の経年変化を示したものです。振幅は潮汐(潮位)の変化幅の半分を表しています。振幅の2倍は分潮の潮差に相当するもので、波浪の波高と同じ内容です。図によればM2分潮の振幅は、当初は変動しているものの平均的にはほぼ一定の大きさでした。しかし干拓が開始された1988年ごろから減少を始め、事業の進捗とともに減少は続き、現在は初期より6cm程度、すなわち当初の振幅の4%程度小さくなっています。しかも事業の進捗に平行して変化していることから、この減少は諌早湾干拓事業によるものと判断されます。

図4.大浦におけるM2分潮の振幅の経年変化

一方、大浦においてはS2分潮の振幅はM2分潮の0.44倍程度です。そして大潮時の潮位変化の振幅は、両分潮の振幅を加えたもので表されます。それゆえ6cmの1.44倍、すなわち8.6cmが大浦における大潮時の振幅の減少で、大潮差はこの倍の17.2cm程度低下したことになります。これは付図3の右図の結果とほぼ一致しています。一方、有明海最奥部の住ノ江の大潮差は大浦の1.09倍ですから、ここの大潮差は20cm近く低下していることを教えます。

4. 潮汐減少に伴う意外に多い有明海の干潟喪失面積

潮汐資料の解析の結果、堤防締切によって4%、湾奥ではそれ以上に潮汐が減少していることが明確になりました。これは干潟が発達した有明海では大きな意味をもっています。いま付図5のような直線状海底を考え,潮汐減少に伴なって実線で表される満干潮面が、破線で表される満干潮面に変わったとします。このとき区間ABは常時陸地と化し、区間CDは常時海中に没します。したがって両区間を加えたものが干潟の喪失範囲を表します。な海底勾配は非常に小さいので、斜面部分と水平部分はほとんど同じ長さです。

図5.潮汐減少に伴う干潟消失の模式図

いま、有明海の干潟全体を、まっすぐに伸びた海岸に沿う幅一様な短冊状の干潟と考え、また海底は上記のような直線状であると仮定します。このときは、潮汐の減少に伴う干潟の喪失面積は、干潟の全面積に潮汐の減少率を掛けたもので与えられます。これは簡単な計算で求まるので、本文の末尾に付録として載せておきました。

文献2の環境影響報告書によれば、有明海の干潟面積は270平方kmとあるので、これに前に得られている0.04を掛けると、干潟の喪失面積は1080haとなり、膨大な大きさになります。

以上は、海岸や海底の形状を単純化した大雑把な計算であり、また干潟面積も変化しているので、今後は実状に添った検討が必要です。しかしこれまでほとんど注意されませんでしたが、現実に起きている潮汐の減少によって、このように大きく干潟の面積が喪失しているのは、意外でもあり、また当然のことです。そして海洋環境に対する干潟の役割の重要性を考えたとき、堤防締切による諌早湾の広大な干潟の喪失と、ここで得た潮汐減少に伴なう有明海全域での大きな干潟喪失が、有明海全体の環境を著しく悪化させていることは十分理解できることです。

有明海の平均海面の上昇

なお最近有明海の平均海面が上昇しているので、諌早湾干拓と関係があるのではないかという疑問がもたれています。これについて付記すると、この現象は干拓とは無関係です。参考のため付図6に、長崎海洋気象台が求めた大浦、口之津、長崎における年平均水位の最近11年間の経年変化を載せておきます。確かに最近は水位が上昇していますが、外海側の長崎でも同様な変化をしているので、この水位上昇は有明海だけの局地的なものでなく、広範囲の現象であり、あるいは地球温暖化と関係するようなものかもしれません。

図6.大浦、口之津、長崎における平均海面の経年変化

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