「有明海の豊かな海はどうして悪化したか」(その3)
「有明海の豊かな海はどうして悪化したか」諌早湾干拓事業を中心に物理的観点から
宇野木 早苗
(元東海大学教授、元理化学研究所主任研究員)
目次
- はじめに
- 諌早湾干拓事業とは
- 堤防締切による有明海の顕著な潮汐の減少
- 潮汐減少に伴う意外に多い有明海の干潟喪失面積
- 堤防締切が有明海の潮流に及ぼす影響
- 埋立干拓によってなぜ潮汐と潮流は減少するか
- 信頼度が乏しい環境影響評価書の潮汐潮流計算
- 潮汐・潮流・干潟の減少が有明海の環境に与える悪影響
- 河川流量の減少が有明海の環境を悪化させている可能性
- むすび ― 有明海の環境保全のためには総合的視点が不可欠
5.堤防締切が有明海の潮流に及ぼす影響
3節で諌早湾の堤防締切のため、有明海の潮汐が減少していることを示しました。これはまた有明海全体としても潮流が減少していることを教えます。すなわち満潮と干潮の間に変化する有明海全域の総海水量は、同じ期間に有明海湾口断面を出入する海水量に等しくなければなりません。したがって潮汐の減少に対応して、有明海湾口の潮流も当然減少するのです。このように諌早湾の干拓事業は、有明海の湾口に至る広い範囲に流れを弱めているはずです。そこで堤防締切の前後で実際に流れがどのように変化しているかを、当局の資料(文献8)に基づて検討します。
付図7は14個の観測地点における大潮の下げ潮時における最大流速を示したもので、左図は堤防締切前の1989年1月におけるもの、右図は締切後の1998、1999、2000年の各1月における値の平均値です。これらは海面下2mの深さにおける測定値です。なお諌早湾より外側に位置する3地点(地点番号12,13,14)においては、水深の半分のところでも流れが測定されているので、その値を2m層の値の下に括弧で囲んで載せておきました。厳密にいうと流れは方向と大きさをもつベクトルなので、これを考慮しなければなりませんが、ここでは簡単のため流れの大きさだけに注目しています。上げ潮の場合にも同様な図が得られます。
そこで閉鎖前後の流れの変化率を計算して、結果を付図8にまとめておきました。これは締切による潮流の変化量が、締切前の潮流の何%であるかを示したもので、プラスが増加、マイナスが減少を表します。なおこの数値は上げ潮と下げ潮の場合にそれぞれ求まりますが、図に示したものは両者の平均値です。変化率の等値線は2m層に対するものです。
まず2m層に注目します。堤防の奥では当然流れはなく、変化率はマイナス100%です。堤防のすぐ前面の潮流も、100%近く減少し、堤防から遠くなると潮流の減少の程度は小さくなります。それでも点線で示した諌早湾の湾口を結ぶ線上の3地点では11%から33%も潮流が減少しています。したがって当局は文献8において「諌早湾の湾口付近においては、流速の変化はわずかである」と結論していますが、これでは到底わずかとはいえないでしょう。とくに注目すべきことは、諌早湾はるか沖で有明海中央の地点14においては、23%も潮流が弱くなっていることです。ただし一番北よりで水深が小さい地点12では潮流の増大が認められます。
一方、諌早湾の外側における中層の潮流では(付図8の括弧中の数値)、有明海中央の地点14では3%程度小さくなっています。しかし北側の地点12では33%、地点13では61%と締切後に流れが大きく増大しています。増大の理由は明白ではありません。
一般に、流れは地形の影響を受けて空間的に変化が大きく、密度成層があれば深さ方向に変化し、風が吹けば吹送流が卓越し、複雑に変動していて単純ではありません。そして観測された流れには周期的潮流とともに平均流(恒流あるいは残差流)が加わっているので、本当はこれらを分離してそれぞれについて締切の影響を求めねばならないことなど、検討を要する点が多く残されています。今後詳しい観測結果に基づく解析が必要です。
ただし北側の2地点を中央地点14と較べたとき、流れは弱く(付図7参照)、水深も小さく、かつ西側に片寄っているので、その寄与は小さくなっています。本節の初めに述べたように、局部的にはともかく全体としては、締切のために潮流が減少しているのは動かし難い事実と考えねばなりません。
6.埋立干拓によってなぜ潮汐と潮流は減少するか
内湾も風呂桶の中の水と同じような流体振動系で、外から力が加わると振動を始め、力がなくなると振動系に固有な振動周期(固有周期)で自由に振動を続けます。そして外から作用する周期的な外力の周期と、流体系の振動の固有周期が近いと共振(共鳴)して、振動が大きくなります。ブランコの場合、これの自由な振動周期と同じ時間間隔で外から力を加えると、揺れが次第に大きくなるのと同じことです。
内湾の潮汐は、外海から進入してきた潮汐波が内湾水を揺れ動かして生じるものですから、内湾の固有周期が潮汐周期に近いと潮汐は大きくなり、潮汐周期より離れるほど潮汐は小さくなります。この現象をもっと詳しく知りたい方は、一般解説書としては文献9を、学理的なものとしては文献10をご覧下さい。
このように内湾の固有周期は、湾内部の潮汐の発達に深く関係しています。そしてこの周期は、風呂桶の例から理解できるように、湾が狭くて短いほど小さく、また湾の水深が大きいほど小さくなります。したがって埋立干拓によって湾の面積が小さくなると、湾の固有周期が小さくなって共振条件から離れるようになり、内湾の潮汐は減少するのです。また、諌早湾干拓の場合もそうでしたが、埋立の場合にはしばしば海底砂を埋立に利用するため浚渫が行なわれます。このために水深が増大した効果も、潮汐の減少に加わっていると考えられます。
有明海の場合には、さらに特別な事情があります。ここでは堤防締切による面積減少は、締切前の面積の2.1%程度に過ぎませんが、潮汐は大浦で4%、湾奥ではそれ以上も減少しています。東京湾や伊勢湾の場合に較べて、潮汐減少の比率は面積減少の割には大きくなっています。これは有明海では干潟が発達しているため、4節に述べたようにわずかな水位変化でも湾長の減少が大きくなり、またそれによる浅海部の消失も大きくて平均水深が増大し、湾の固有周期が短くなる割合が大きくなるためと考えられます。
有明海で潮汐が大きくなる理由
有明海は湾奥の潮差が最大で5m、あるいはそれ以上のときもあり、日本で潮汐が最も大きい海湾として有名です。参考のためにその理由を述べておきます。理由は2つあります。1つは有明海の固有周期(基本振動周期)は約7.8時間であり、6時間の東京湾やそれよりやや小さい伊勢湾などに比べて相当に大きく、それだけM2分潮などの半日周期に近いからです。2つは太平洋を西進して東シナ海に入った潮汐波は発達するので、有明海の湾口における潮汐が、東京湾や伊勢湾の湾口における値よりも、もともと大きくなっているためです。
7.信頼度が乏しい環境影響評価書の潮汐潮流計算
事業を始める前の環境影響評価が、きちんと行なわれていなかったために、事業実施後に環境が悪化してとんでもない結果になっている例が多く見られます。そこで諌早湾干拓事業の場合はどうであったかを理解するため、諌早湾干拓事業に関する九州農政局の環境影響評価書(文献2)を検討してみます。ここでは筆者が専門の潮汐と潮流に関する部分をとりあげます。結論としては、干潟が著しく発達した有明海の特性が再現できていなくて、計算結果の信頼性は乏しいといえます。このことはまた、この計算結果に基づいたその他の環境要素に対する評価結果も、疑問があることを意味します。
報告書の結論は次のようになっています。
- 1.実際値と計算値を比較して、潮位と潮流ともに「再現性は良好であると判断した」
- 2.潮位の予測計算では、「諌早湾から有明海の湾中央部にかけて1-2cm程度締切前より上昇すると予測されるが、この変化量は有明海の潮位差3-5mに比べると、1%にみたないものであり締切による影響はほとんどないものと考えられる。」
- 3.潮流の予測計算では、「従って、諌早湾湾奥部の締切による潮流の変化は、諌早湾内に限られ、諌早湾湾口部およびその周辺海域の潮流に著しい影響を及ぼすことはないものと考えられる。」
最初に潮流に関する計算の再現性を考えます。付図9は、有明海の2地点における半日周期の潮流楕円の実測値と計算値を比較したものです。楕円の中心と潮流楕円上の1点を結ぶ線分は、流れのベクトルを表し、その長さが流速を、向きが流向を与えます。そして流れのベクトルの先端を表す楕円上の点は、分潮の1周期の間に楕円を一回りするのです。回る方向に関しては評価書では記載がありません。測流地点は付図中に示しておきました。
実測値は海上保安庁によるもので、比較対象にした地点は6地点であり、地点2以後のものはすべてこの地点より南に位置しています。地点2の計算結果で代表されるように、2-6の地点では計算の再現性はまずまず許容される範囲にあります(図省略)。ところが最も北に位置して干潟に近い地点1では、計算値の最大流速は実際値の60%程度に過ぎず、再現性はよくありません。
この付近の流れはこれより北側の広い干潟域の水位と流れを支配していますから、ここで再現性が悪いという結果は、干潟域の水位と潮流の計算結果も同様に再現性が悪いことを意味します。したがってこのような計算精度の低い数値モデルを用いていますから、3節に示したように実際は4%も潮汐が小さくなっているのに、その1/4の1%程度しか潮汐は減少しないという大きく間違った予測が生まれたのです。4%のもつ重要性は4節で述べました。
また堤防締切は、諌早湾湾口部や周辺海域の流れに著しい影響を及ぼさないとの予測結果も、付図8を見ると、この結論が正しいとはだれも認めないでしょう。有明海の中央においても、大きな変化が生じているのです。
それではなぜこのように計算精度が悪かったのでしょうか。現在の計算技術では、密度成層が弱くて常時水がある場合にはかなりよく流況を再現することができます。しかし有明海のように広大な干潟があると事情はかなり異なります。コンサルタント会社に勤めて計算技術に詳しく高い技術をもつ筆者の友人は、このような海域で物理的に十分に考慮された計算法はまだ見たことがないように思う、といっています。
干上がった陸地に海水が進入する現象は、きわめて非線形性の強い面倒な現象である上に、それが数kmの広い範囲に及ぶのですから、計算はよほど慎重にしなければなりません。このためにはまず計算に用いる数式表現は十分吟味されねばなりませえん。また海底摩擦の評価の方法も通常と異なると思われるので検討を必要とします。そして澪筋などの海底地形を十分に表現することを含めて、納得できる計算を行なうためには、大きな経費と時間を要するでしょう。狭い干潟の場合は、これまでも計算されていますが、このときは多少問題があっても影響が広がらないので、なんとか切り抜けることができるのです。
現実には厳密に取り扱っても容易に計算が進まないので、観測結果と比較して手直しをし、実際に合わせることが多く行なわれています。したがって計算を助け、また計算結果と比較すべき観測データを充実させることが何よりも重要です。最近有明海に関していろいろと数値計算の結果が発表されていますが、干潟付近での流れの計算結果を実際と比較したものは、あまり見当たらないようです。干潟が重要な海域では、これがなければせっかくの計算結果の信頼性がわからないので、それを示していただくことを期待します。