諫早湾干拓事業のアセスとそのレビューのおかしさ(全文)
農水省九州農政局による
「諌早湾干拓事業の環境影響評価の予測結果に関するレビュー」
に対する物理的観点からの意見と現実の物理環境変化
元東海大学教授・元理化学研究所主任研究員 宇野木早苗
1.まえがき
農水省九州農政局は環境庁長官からの意見に答えるため、2001年7月に諌早湾干拓事業の環境影響予測結果に関するレビューを実施した(文献1)。このレビュー結果について日本自然保護協会は筆者に意見を求めて来たので、筆者が専門の物理的観点からレビュー内容を検討した。以下に検討結果を報告する。
前に筆者は日本自然保護協会への最初の報告書(2001年4月、文献2)の中で、主に物理的な面から諌早湾干拓事業の環境影響評価書(文献3)における問題点を指摘した。そして問題の多い環境影響評価に基づいて事業を実施したことが、現在の有明海における著しい環境の悪化をもたらした重要な要因であろうと述べている。
今回のレビューにおいても、事業当局は当初の環境影響評価は概ね妥当であったと評価し、筆者の指摘した問題点はほとんど無視している。そこでレビューの内容がどの程度妥当であるかを吟味する。それと共に、干拓事業開始以来の有明海における環境変化の実態を正しく認識することは基本的に重要であるので、レビューでは不充分もしくは欠けている物理現象の変化とその原因についても、入手可能なデータを基に解析を行なって関係当局および関係方面の理解を深めたいと思っている。なお有明海の潮汐現象についてはまだ研究途中であるので、ここに述べる数値については今後多少の変動はあり得るも、基本的な内容には変化はないと考えている。
2.潮汐変化
ここでいう潮汐は、潮汐現象を鉛直方向の潮位変化と水平方向の潮流に別けたときの前者を意味するものとする。内湾の開発事業が海域の潮汐に及ぼす影響を把握する上に本質的に重要な予測項目は、多くの開発事業における環境影響評価の例がそうであるが、潮汐の変化すなわち干満の差(潮差)や分潮の振幅の変化である。
2.1 潮汐変化の当初予測
しかるに驚きべきことに、本事業の環境影響評価では、この潮汐変化の予測が実施されていない。その代わりに満潮位の予測が実施されている。ところが3節で明らかにするように、開発事業が潮汐に与える直接的影響を把握する上では、満潮位(海水面)の予測は余り意味のあることではない。なぜならば海水面は潮汐のみでなく、開発事業と関係のない他の気象・海象要因の影響を強く受けるからである。
2.2 潮汐変化の検証
潮汐変化については予測が実施されていないので、レビューでは検証は行われていない。ただし実測データに基づく大潮差や分潮振幅の数値が記載されている。ここでは代表として、分潮の中で最も重要なM2分潮(主太陰半日周潮、周期12.42時間)の振幅の変化に注目する。
当局発表の島原半島の多比良(位置は図-1参照)における観測数表を基に、理解しやすいようにM2分潮の経年変化を図化すると、図-2が得られる。干拓事業着手の1988年以降、変動は見られるものの潮汐が減少傾向にあることが明瞭に認められる。このことはレビューでも触れていて、そこでは「年ごとに若干上下しつつ徐々に潮差が小さくなる傾向がみられたが、このトレンドは工事前からみられる傾向である」と、工事との関係を否定するような記述になっている。この記述が正しくないことは後で示される。
2.3 潮汐変化のレビューに対する意見
環境影響評価項目の中で、だれもが基本的に重要と考える潮汐変化の予測を実施していないことは理解に苦しむところである。さらに当局自身による上記(図-2)の観測の結果、事業着手以来潮汐が明瞭に減少していることが把握できたにもかかわらず、この原因が何によるか、干拓事業がどのように関わっているか、さらにこの潮汐減少が有明海の環境にどのような影響を及ぼすかについて、明確な解析や考察を行なっていない。レビューではまた、気象庁発表の分潮の数値を転載して、その変化について簡単に記述している。ただしこれは毎年の値を5年間ごとに区切った平均値であるので、干拓事業の潮汐に対する影響を把握するには適当とはいえず、もっと詳しい解析が必要である。
一方、漁業者たちは、最近有明海の潮時(満潮・干潮の時刻や上げ潮・下げ潮の時刻)が一般に公表されている潮汐表とかなりずれていて、操業に困ることを述べている。これは干拓事業と関係が深いと思われるので、その実際と理由についてレビューの中で答える必要があると考えられる。
2.4 潮汐変化の実態とその要因
筆者は、気象庁が公開している1時間ごとの長期にわたる潮汐データを用いて、調和分析を実施した。これに基づいて、今回当局が発表したレビューでは知ることが困難な、干拓事業以後の有明海における潮汐変化の実態とその要因について説明を行なうことにする。詳細は4学会関連機関が今年8月4日に水産大学で開催した「有明海物理環境に関するワークショップ」における筆者の報告(文献4)を参照されたい。
図-3は、有明海周辺の気象庁所属の4検潮所(大浦、三角、口之津、長崎、図-1参照)におけるM2分潮振幅の経年変化を描いたものである。長崎は有明海の外側沿岸、口之津は湾口、三角と大浦は有明海の内部に位置し、大浦が湾奥に最も近い。数年周期の変動が加わっているものの、諌早干拓事業が着手された1988年ごろから潮汐が減少を始めたことが明瞭に認められる。そしてレビューにおいて、工事前からすでに潮汐の減少は始まっていて、工事との関係は薄いように主張するのは、この図によれば根拠は乏しいと判断される。そこで以下では工事開始の1988年以後の変化に注目する。
図―4は長期変化の傾向を見やすくするため、3年間の移動平均を行なって短期変動を消去したものである。なおこれには多比良における結果も付け加えてある。この図から多比良を含めて、有明海内部において潮汐が明瞭に減少していることが理解できる。湾奥付近の大浦においては干拓着手から1997年の堤防締切までに、M2分潮の振幅が3.1cm小さくなっている。これは当初振幅の2.0%の減少に相当する。なおこの数値は、諌早湾の潮受堤防内部の消失面積が有明海全体の面積に占める割合の2.1%に近い値である。データが入手可能な1999年までを考えれば、振幅の減少は5.6cmで、これは当初の値の3.6%減に相当する。
以前に筆者らは東京湾、伊勢湾、大阪湾の潮汐を研究して、これが年々減少していることを示した。そしてこの原因は、埋立や浚渫による沿岸開発の結果、湾面積の縮小や水深の増大を伴う地形変化のため、湾の固有振動(自由振動)の周期が減少して、湾内潮汐の基本性格である共振潮汐の機能が弱まったためであると結論した(文献5)。この経験を踏まえ、また有明海の潮汐の減少が諌早湾干拓事業とほぼ並行して進行していることを考慮すると、以上に述べた有明海の潮汐の減少には、この干拓事業が大きく寄与していることが推測できる。
一方、図-4によれば湾口や湾外においても、湾内部ほど顕著ではないが、潮汐が減少する傾向が見られる。それゆえ有明海の潮汐の減少は、湾内部に原因があるのではなく、湾外における潮汐の減少が主因であるという主張もなされることがある。しかし外海の潮汐減少が原因であるとすれば、共振潮汐による湾内部の潮汐の増幅率は、年により変化せずに一定値を保つはずである。
そこで有明海内部の振幅と湾口および湾外における振幅の比(増幅率)を求めると図-5が得られる。図によればいずれの場合も増幅率は一定でなく、明らかに年々減少を続けていて、上に示した湾内の潮汐減少の主体は湾外部にあるのではなく、湾内部にあることが認められる。いま簡単な理論を用いて大浦の場合について、潮汐減少に対する湾内部と湾外部の寄与の程度を比較すると、次の数値が得られる。すなわち干拓事業着手の1988年から堤防締切の1997年までの期間における潮汐減少に対して、湾内部の寄与が約95%、湾外部の寄与が約5%になる。この間に湾内部の地形変化をもたらす最大事業は諌早干拓であるので、この事業が潮汐減少の基本的要因であることは間違いないであろう。
なお1999年までを考えると、大浦における潮汐減少に対して、湾内部の寄与が約72%、湾外部の寄与が約28%であって、やはり湾内部の寄与が本質的に重要であることが理解できる。ただし潮受堤防の締切後にも増幅率が減少していることが注目される。これに関しては、次の3節に示すことであるが、外海を含む広範囲の海域において1996年から 1999年までの間に年平均水面が10cm程度増大しているので(後出の図-6参照)、この水深増大の影響で堤防完成後の潮汐減少を説明する試みもある。しかし有明海の平均水深20mに対して、変化量10cmは非常に小さいので疑問も残る。この原因については、湾内の諸開発に伴う地形変化、潮受堤防からの排水条件などを考慮して、今後詳細に検討する必要がある。いずれにしても、堤防完成の1997年までの潮汐の減少は、干拓事業に伴うものであることは否定できないであろう。
なお文献2の中で筆者は、干拓事業のために約4%の潮汐減少を見積もった。これは当初少ない資料を基に緊急にまとめる必要があったためであるが、上記のような詳しい解析結果によればやや過大な見積もりであり、その半分程度を考えるのが妥当であろうと訂正を加えておく。
3.潮位と平均海面の変化
3.1 満潮位変化の当初予測
当初の環境影響評価書(文献3)によれば、堤防締切後の潮位の変化に関して、潮汐変化(潮差や振幅の変化)の予測を行なわず、単に満潮時の海面の変化についてのみ予測している。そこでは満潮位は、「諌早湾から有明海の湾中央部にかけて1~2cm程度締切前より上昇することが予測されるが、この変化量は有明海の潮位差約3~5mに比べると、1%にも満たないものであり締切による影響はほとんどないものと考えられる」、と予測している。
3.2 満潮位変化の検証
文献1のレビューにおいては、上記満潮位の当初予測に関する検証は行われていない。その代わりに朔望平均満潮位および干潮位について言及していて、両平均海面とも年々上昇する傾向にあると述べている。しかし潮汐変化に原因する満潮位の変化と、他の自然現象に原因する平均海面の変化とは別の現象であり、朔望の平均海面は両者を重ねたものである。したがって朔望の平均海面の変化を基に、干拓事業が潮汐に及ぼす影響を把握しようとするのは無理であり、レビューの中でのこれに関する記述は無意味に近いといえる。またこの内容は当然当初の満潮位予測の検証にはなっていない。さらにレビューでは平均海面の季節変化の変動と堤防締切の関係を長々と論じているが、これも意味があるとは思えない。具体的には以下の節で説明する。干拓事業が潮汐に及ぼす影響を見るには、2節に述べた潮汐変化で判断するのが基本であることはいうまでもない。
3.3 平均海面の変動の実態とその要因
干拓事業が潮汐に及ぼす影響を問題にするいまの場合に、この満潮位を含む平均海面の変動について詳細に議論することはあまり適切とは思えない。ただし実際面からいえば、平均海面の変動は漁業者にとって必要不可欠な情報である。また当初の環境影響評価書や今回のレビューでも見出される環境影響評価者の誤解を解くためにも、平均海面の性格について理解を深めておくことは必要と思われる。そこでこれについてやや詳しく解説を加える。なお混乱を避けるために、月平均潮位を基にした平均海面の年変化(季節変化)と、年平均潮位を基にした平均海面の年々変化(経年変化)に分けて考えると理解しやすい。
最初に平均海面の季節変化を考える。有明海周辺海域では月平均海面は年間に40~50cm程度の変動幅で変動し、夏から秋にかけて最高になり、冬に最低になる。ただしその変動の大きさやピークの時期は、年によって大きく変動する。変動の状況は、今回のレビューで数頁も費やして掲載している図や表で知ることができる。
内湾における平均海面の季節変化の要因は、筆者が文献6で詳しく解析を行なっている。それによると主な要因は3つあって、最も大きいのは海水密度の年変化(密度が小さいと海面は上昇)、次が気圧の年変化(気圧が低いと海面は上昇)、さらに卓越風の年変化(岸向きの風で海面は上昇)である。これらの自然現象は年により大きく変化するので、平均海面の季節変化が年により異なるのは当然のことである。なお密度変化は主に水温変化に依存し、海流の変動などを含めて広い範囲の海況の変化と深く関係している。また気圧配置も広域的であるので、平均海面の変化は広範囲に共通している部分が多く、周辺の広い海域で相関がよいのは当然である。よって海面変化が広域的であることを理由に、潮受堤防の締切を海面変化の主因とすることは考え難い、という本レビューの結論はいわずもがなのことで、意味がない。
次に上記3.2節に述べてあるが、レビューの中に朔望平均の満潮位や干潮位が年々上昇していることが指摘されている。また漁業者の間で、最近有明海の水面が上昇していることが問題になっている。この海面変化に対しては、上述の潮汐によるものと平均海面の季節変化の他に、平均海面の経年変化が大きく関係している。そこで図-6に、長崎海洋気象台が求めた大浦、口之津、長崎における平均海面の経年変化を示しておく(文献2)。いずれの地点でも1996年ごろから1999年にかけて、平均海面が10cm程度上昇していて、それ以後は低下の傾向が見られる。この平均海面の経年変化は局地的なものでないので、堤防締切との関係は考えなくてよいであろう。東シナ海さらに北太平洋の海洋変動、あるいは気候変動との関係なども考えられ、今後の検討が必要である。
なお漁業者への聞き取り調査によれば、実際に経験する海面上昇量は、10cmどころでなくもっと大きいということである。今後その実態と原因を解明する必要がある。
4.潮流変化
4.1 潮流変化の当初予測
数値シミュレーションの結果に基づいて、文献3の環境影響評価書の予測では、「従って、諫早湾湾奥部の締切りによる潮流の変化は、諫早湾内に限られ、諫早湾湾口部及びその周辺海域の潮流に著しい影響を及ぼすことはないものと考えられる。」と結論している。
誤りの少ない潮流の予測結果を得るためには、第1に、潮流は空間的な変化が大きいので、関係海域において時間的空間的に詳しい潮流観測を実施して海域の潮流の特性をよく把握しておくことが重要である。第2に、シミュレーションの方法が信頼性の高いことが必要であり、その精度は上記の観測結果と比較して確認されねばならない。
今回の干拓事業の場合、当局によって諫早湾内では11地点で測流が行われている。だが広い有明海では非常に少なく、諫早湾沖の3点で測流されているに過ぎない(図-8参照)。これを補うため当局は、海上保安庁水路部が有明海の湾奥から湾口までの6地点で実施した測流結果を借用している。これは干拓事業開始の20数年前のデータで、この間に地形変化のため潮流も変化している可能性がある。ゆえに干拓事業が広大な有明湾内の潮流に及ぼす影響を詳しく知るには、十分な観測とはいえない。おそらく諫早湾内の干拓事業が、有明海の潮流に及ぼす影響は軽微という認識であったと推測されるが、実際は共振潮汐の性格をもつ有明海では、断面の総流量という点からいえば、事業がもたらす潮汐減少に伴う流量減少は、有明海の湾口に近づくほど大きくなり、最も影響が大きいのは湾口であることに留意すべきである。
次に環境影響評価書に基づき、シミュレーションの再現性の程度を示す例を図-7に示す。これは計算したM2分潮の潮流楕円(点線)を観測値(実線)と比較しものである。観測は上記水路部によるもので、ここでは湾奥に近い測点1、2の結果が示されている。他の4測点はこれより南に位置する。測点2における計算結果で代表されるように、常時海水に覆われている測点2から6までの地点では計算の再現性はまずまず許容される範囲内にある。だが最も北に位置して干潟に近い測点1では、計算値の最大流速は実際の値の60%程度に過ぎず、再現性はよくない。
これは干潮時に数kmもの広大な範囲が干上がる底面を潮汐が遡上する現象は、非線形性が非常に強いので、極めて高度な計算技術と多くの時間と経費を要するのであるが、これが満たされていないためと思われる。測点1付近の流れは、これより岸側の広い干潟域の水位と流れを支配しているから、ここで再現性が悪いことは、干潟域の水位と流れの計算結果も同様に再現性が悪いことを意味する。
このように欠陥を含む数値シミュレーションと、有明海全体では不足している観測データを基に得られた頭記の潮流の予測結果が、堤防締切後の潮流をどの程度表しているかが以下に問題になる。
4.2 潮流変化の検証
今回のレビューでは、事業前後の調査結果に基づいて観測した流れの違いを並べた後、「(諫早湾内では)湾奥部から湾口に向かうに連れて流速変化は徐々に小さくなっている。一方、諫早湾外の3地点については、地点・層により流速の増加及び減少傾向が異なっており、潮受堤防締切の前後で一様な変化傾向が認められない。」と結論している。
この結論は、前節の初めに述べた当初予測に対する評価としてはあいまいであり、その適否の判断を避けている印象を受ける。とくに結論の後半の部分では、有明海では事業の前後で潮流にいろいろな変化が生じているというにとどまっていて、これらの変化が干拓事業とどのように関わっているのか、影響の有り無しを明確にしようとする努力には欠けている。さらにすでに今年4月に文献2で指摘した上記のシミュレーションの問題点にも検討はなされていない。そこで次節で潮流変化の実態を調べて、当初予測は実態と離れていることを示すことにする。
4.3 潮流変化の実態
事業前後の流速差の数値や、平均大潮期の流況図の長い羅列などだけでは、誰しも事業前後の流れの変化を的確に判断するには困難を覚えるに違いない。そこで分かりやすいように、平均大潮時における最大流速の堤防締切前(1989年1月)と堤防締切後(1998-2000年の各1月の平均)の値の差を求め、これが当初の何%に当たるかという流速変化率を計算した。これはすでに文献2で報告してあるので、結果を図-8に引用する。プラスは増加、マイナスは減少を表す。なお諫早湾内では海面下2m層の値が、諫早湾外の3点においては上段に海面下2m層の、下段に括弧を付けて水深の1/2の層における値が示されている。これら変化率は上げ潮と下げ潮の両方で求まるが、図の数値は両者を平均したものである。なおレビューでは2001年の観測結果も示してあるので、これを加えると数値に多少の変動があるであろうが、本質的な差は生じないと判断される。
まず2m層に注目する。締切堤防の奥では当然のこととして、流速変化率はマイナス100%である。堤防のすぐ前面の潮流も100%近く減少し、堤防から遠くなると潮流の減少の程度は小さくなる。それでも点線で示した諫早湾の湾口を結ぶ3点では11%から33%とかなり大きく減少している。特に注目すべきは、諫早湾はるか沖で有明海中央の測点14においては、23%も潮流が弱くなっていることである。
ここで潮位と異なって、潮流は地形の影響を受けて局地性が大きいことに留意する必要がある。例えば諫早湾外の最も北に位置して岸寄りの浅い測点12では、潮流は28%と強まっている。これはこれまで諫早湾の奥に向かって往復していた海水が、堤防のため一部が南北に往復する流れに変わったためと思われる。諌早湾外側の3測点の中層では、測点14では3%程度小さくなっているが、岸に近い2測点では流速はかなり増大している。ただし局地的にはそうであっても、共振潮汐が卓越する湾全体として考えると、堤防締切による潮汐減少に伴って潮流が減少していることはいうまでもない。なお正確な流れの把握には、観測が明らかに不足している。
まだ検討すべき点はあるものの、以上の観測結果は、潮流の変化は諫早湾内に限られ、諫早湾湾口部およびその周辺海域の潮流に著しい影響を及ぼさないという当初予測と大きく異なり、予測が正しいといえないことを教えている。
5.むすび
潮位と潮流に限ってではあるが、諫早干拓事業に関して当初なされた環境影響評価の正しさ、およびこれに関する現時点でのレビューの妥当性を検討した。この結果、堤防付近を除けば干拓事業が有明海の潮汐と潮流に与える影響は考えなくてよい程度、という当初予測は正しくないことが分かった。一方、レビューの方は、当初予測を支持するか、その誤りを糊塗するような内容になっていて、干拓事業の影響をできる限り明確にしようとする姿勢に欠けていた。また欠陥が指摘されたシミュレーションについても、改善の努力は図られていないようである。このようなレビューは、公正中立な第三者でなされねばならないことを教えている。
有明海の物理環境に対する諫早干拓事業の影響を明確にするためには、今後以下のことが重要である。
(1)これまでの観測だけでは堤防締切に伴う変化を的確に把握するのは困難である。流動には周期的な潮流だけでなく、恒流や残差流とよばれる非周期的な流動、すなわち潮汐の非線形性に起因する潮汐残差流、風による吹送流、密度成層に伴う密度流が加わっていて、水平循環や鉛直循環を形成している。これら循環は湾内の物質循環や生物生産に深く影響している。これらの実態と変動が把握できるような観測と解析を行なう必要がある。
(2)実際には上のような観測には限りがある。有明海の流動の変化と現状は、日常海に出て仕事をしている漁業者が最もよく知っている。漁業者に対する第三者による詳しい聞き取り調査を行なうことが大切である。筆者が有明海4県の漁業者から聞いた話でも、当局の観測やシミュレーションからは把握できない締切堤防後の水位や流動の顕著な変化を認識することができた。
(3)広大な干潟と潮流が著しく発達した有明海では、干潟域における潮汐の遡上、および密度流が正確に再現できるような精度の高いシミュレーション技術の開発が必要であり、これによるシミュレーションの再試行が望まれる。ただしこれは容易でないので、現在の手法は不完全なものであることを十分認識して、観測事実と比較しながら、信頼限界を考慮した判断が肝要である。
(4)最近の有明海における水位や流れの大きな変化は、諫早干拓事業の影響が主体であるが、外海の影響や、有明海内部のその他の要因、すなわち筑後大堰、熊本新港、佐賀空港、海底炭坑沈没、普賢岳噴火に伴う土砂流入などの影響も含まれていると考えられる。これらを総合的に検討し、それぞれの影響の程度を明らかにすることも必要である。
この小文では、諫早干拓事業が有明海の水位と流れに与えた変化について考察した。これらの物理的変化が有明海の水質、底質、生物環境にどのような影響を与えているかを明確にすることは極めて重要であるが、これはこの小文の範囲を越えている。
参考文献
1.九州農政局(2001):諫早湾干拓事業の環境影響評価の予測結果に関するレビュー.
2.宇野木早苗(2001):有明海の豊かな海はどうして悪化したか-諫早湾干拓事業を中心に物理的観点から、日本自然保護協会報告書.
3.九州農政局(1991):諫早湾干拓事業計画(一部変更)に係る環境影響評価書.
4.宇野木早苗(2001):有明海における水位と流れの変化-磯部教授の見解に対する答えも含めて-、有明海物理環境に関するワークショップ.
5.宇野木早苗・小西達男(1998):埋め立てに伴う潮汐・潮流の減少とそれが物質分布に及ぼす影響、海の研究、7巻、1-9頁.
6.Unoki.S.(1983):Annual variation of the mean sea level and its inclination in a bay.
Coastal Engineering in Japan.Vol.26,pp.219-234.
図-2 多比良(図-1)における M2分潮の振幅の経年変化 |
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図-1 潮位の測定位置 |
図-3 有明海内外の4地点におけるM2分潮の振幅の経年変化
図-5 有明海におけるM2分潮の増幅率の 経年変化(図-4に基づく) |
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図-4 3年間の移動平均によるM2分潮の振幅の経年変化 |
図-6 有明海内外の3地点における年平均海面の経年変化
図-7 潮流楕円の実測値(実線)と計算値(点線)の比較
図-8 諫早湾堤防締切に伴う大潮時最大流速の変化率(%)、
締切前:1989年、締切後:1998-2000年