初期の自然の保護(やさしくわかる自然保護3)
月刊『自然保護』No.427(1998年6月号)に掲載された、村杉事務局長による自然保護に関する基礎知識の解説を転載しました。
自然保護に関する考え方や概念それに用語など、基礎的なデータベースとしてご活用ください。各情報は発表当時のままのため、人名の肩書き等が現在とは異なる場合があります。
やさしくわかる自然保護 もくじ
初期の自然の保護 ~祟り意識が自然を保存した~
では、そろそろ話題を「保護」に移そう。
ここで保護の対象にしている「自然」は、前号で述べたように明治生まれの新しい言葉であり、いまだにその意味は揺れ動いている。このことが「自然」の概念を曖昧にしている一因だった。自然が新しい言葉であると言うことは、同時に、自然保護も新しい概念ということになる。実は、私たちが自然保護を切実に意識するようになったのはごく最近のことなのだ。
では、それ以前はどうだったのだろう。--というわけで、今回は自然保護を意識する以前の日本人と自然のかかわり方をざっと見て見ることにしよう。
日本はかって、国土のほぼ90%が森林に覆われていた。紀元前3世紀ごろ、中国から稲作が入り、それがモンスーン地帯にあるわが国の風土に適合して水田耕作は各地に広まっていった。水田には水が必要である。経験的に森が水をつくることを知った人々は、水源としての森を大切にしてきた。その気持ちが、森は神聖なところ、その森に覆われた山は神がおわすところ、というような宗教的な思いとなり、さらにはそれが自然に対する畏敬の心につながっていったに違いない。
そのころの日本人には、あえて「自然保護」という意識はなかっただろう。山を神とみなしたり、「この木を切ると祟りがある」というように、一種の宗教的な意識とか、祟り意識を基本とした掟によって自らを縛り、自然に対して、謙虚に、少々臆病に接していたために、”結果として” かなりの自然が保存された。
江戸時代には水源涵養林や、防風・水害対策上の保護林の設定に加えて鳥獣の保護などもはかられるようになるが、人口も少なく(といっても江戸時代中期の人口は約3000万人)、その上、人々の生活も自然の循環の中で営まれていたこともあって、自然保護の必要性はほとんど意識されなかった。
ところが明治以後は、急速に西欧文明を取り入れたことで自然観も西欧化し、自然を破壊の対象に変えてしまった。その結果として、自然保護の必要性が生まれてきた。そして、この今日的な「自然保護」を語るときの「自然」は、あくまで人間と対置して存在する「自然」なのだ。
ただ、やっかいなことに、私たち日本人はまだ、人間も溶け込んでいる「自然」、つまり祖先が抱いていた東洋的な自然観も心のどこかに温存している。ときとしてそれは自然に対する「甘え」となって現れる。自然に対する「甘えの心理」※1こそが、日本の自然保護・環境保全対策の遅れの根幹といえよう。
ところで、自然保護という言葉も、その目的によって、いくつかに分けることができる。次回からは、「自然保護」そのものをかみ砕いてみよう。
(村杉 幸子・NACS-J事務局長)
<参考資料>
※1 土井健郎 『「甘え」の構造』 弘文堂