日本のプロテクション②(やさしくわかる自然保護6)
月刊『自然保護』No.430(1998年10月号)に掲載された、村杉事務局長による自然保護に関する基礎知識の解説を転載しました。
自然保護に関する考え方や概念それに用語など、基礎的なデータベースとしてご活用ください。各情報は発表当時のままのため、人名の肩書き等が現在とは異なる場合があります。
やさしくわかる自然保護 もくじ
日本のプロテクション② ~日本自然保護協会の活動を追って~
日本自然保護協会(以下、協会)は前回述べた尾瀬保存期成同盟が母体となって1951年に設立された。
尾瀬の開発計画と同時進行で起こっている国立公園の核心地域の開発にも緊急に「待った」をかける必要があったからである。雌阿寒岳の硫黄採掘問題、富士山麓本栖湖発電工事問題、黒部川第四発電所問題、北山川発電問題などが創立直後の協会が保護を訴えた主なものである。
その後の高度経済成長期には「観光開発」が錦の御旗となった。
1950年代後半から60年代にかけては山岳観光道路や大規模林道のラッシュ、パワーショベル等の巨大機器が、国立公園の核心部を次々と切り裂いていった。尾瀬ケ原のダム化は何とか免れたものの、それ以外に多くのダムが山奥に建設され、河川もずたずたになっていった。海岸も然り、たくさんの干潟がコンビナートに変貌した。
すさまじい自然破壊に危機感を持った協会は組織の強化と拡充を図るために1960年に任意団体から財団法人に改組する。しかし「開発こそ人間を幸せにする」という当時の風潮のなかでは小さな自然保護団体の主張は極めて弱くしか社会に響かず、国家の巨大プロジェクトを前にしては、もぐらたたきも焼け石に水であったに違いない。このころから協会は従来の景観保護の直接的な運動だけではなく、生態学を理論的根拠とする学術調査及び研究活動を活発化させる。
1960年代後半からの自然保護運動の特色は市民が自然保護、環境保全に目覚め、公害反対をはじめ、原生的自然の破壊への反対運動に立ち上がる一方で、自分たちが住んでいる地域の自然にも関心を高めていったことである。「○○を守る会」とか「○○に反対する会」が全国各地に続々と結成されるようになった。
このような時代の波にのって、協会も運動の方法をより広範なものへと転換していく。例えば「自然を返せ」をスローガンにした初めての「自然保護デモ」の裏方をつとめたり(1970年)、「自然保護」をテーマにしたシンポジウムやセミナーの開催、各種の団体の保護活動の応援など市民運動の盛り上げにも貢献しているが、運動の中核は開発主体への意見書や陳情書、請願書の提出とかマスコミへのアッピールなどで、これは同盟時代から現在まで一貫して変わっていない。
ちなみに同盟時代から30年間の意見書・陳情書の類は全部で136件、学術調査報告書は68件に及ぶ。ただしこの中には、自然保護思想の啓蒙にかかわる陳情書3件が含まれている。※1
(村杉幸子・NACS-J事務局長)
<参考資料>
※1 財)日本自然保護協会(1985年)
「自然保護のあゆみ」日本自然保護協会三十年史編集委員会