被災地で緊急避難させた湿地の植物のゆくえ(その1)
保護・研究部の朱宮です。
8月22日~25日、宮城県南三陸町と気仙沼小泉地区に東京農業大学の学生と調査に行きました。今回の調査の目的は湿地や浜辺の植生調査なのですが、ここに至るまでには少し背景があります。
昨年、NACS-Jは南三陸町において森川海の連続性に着目して植生調査、水環境調査、アマモ場調査を気仙沼の西舞根川と南三陸町の水戸辺川周辺で実施しました(その結果は、東日本海岸調査報告書(2013)参照)。これらの調査は、上流の森林や河川沿いの渓畔林だけでなく、津波の被害のあった田んぼの跡地でも行いました。
南三陸町の戸倉地域周辺には、小さな谷戸が発達し、谷戸田があるのですが、戸倉地域の中で特に波伝谷地区には絶滅危惧種となってしまったミズアオイやミズオオバコを優占種とする植物群落が津波後に復元していました。
▲昨年(2013年夏)のP1の様子(左)と現在(2014年8月)の様子(右)波伝谷
津波後に復元した湿地植物群落の存在は仙台平野など他の地域でも確認されていますが、その保全は簡単ではありません。
まず、もともと農地であった場所なので農地復旧工事、巨大防潮堤、残土置き場、復旧道路などの対象区域になっており、町の復興事業の進捗とともに消失する可能性が高いことが挙げられます。また、仮にその場所が保存されたとしても湿地植物群落はうつろいやすく変化しやすい生態系であるために定期的に洪水などの自然のかく乱や人為的にかく乱する必要があります。そうでないと、ヨシやヤナギが侵入し、低木林へと遷移していきます。
湿地植物が復元してきたのは、地元の方に伺ったところ低農薬で稲作が続けられてきたこと、谷戸田で田んぼが維持される湧水地がたくさん存在していること、毎土種子により、絶滅危惧種の土の中に保存されていたことなどによると考えられます。震災前もおそらく田んぼとある程度共存していたか、あるいは隣の放棄されていた田んぼで個体群が維持されていたのではないかと思われます。
そこで、湿地 植物群落の保全をしていくために、移植をし、かつ移植先での田んぼの復元を同時に行い、定期的に人の手によって管理されている状態を作れないかと提案をしました。しかも、農薬をできるだけ使わずにです。
南三陸町のネイチャーセンター準備室の平井和也さんに湿地の保全についてお話をしたところ、ちょうど復旧した農地を使って酒米づくりができないか検討しているとのことでした。震災後に地域の人たちの心を癒す嗜好品として酒づくりができれば、耕作放棄地の活用、過疎高齢化、田園風景の存続につながるのではないかとのことでした。それが湿地の希少植物の保全につながるということであれば、さらに新しい価値を加えることができるわけです。
南三陸町の戸倉地区で湿地保全を行うことには別の意味もあります。
環境省は、石巻市、登米市、南三陸町の3つの地域を自然観察やガイドツアーなどを行うフィールドミュージアム構想の拠点とする検討を行っており、将来、南三陸ネイチャーセンター跡地にビジターセンターが建設される予定となっています。もし、ビジターセンターが開設されれば、専従職員が雇用されることが想定されます。そしてセンターのプログラムの中に湿地植物群落の保全や米づくりが位置づけられれば、将来にわたって継続的に田んぼが維持される保障がされます。
さらに、南三陸町はコクガンの飛来地としてラムサール条約の潜在候補地として選定されており、将来、登録地の申請をする際に、渡り鳥の飛来地としてだけでなく、生物多様性に配慮した田んぼの湿地が維持されている地域として評価が高くなるとも考えられます。
何より、波伝谷でモニタリングサイト1000の里地里山調査でもご協力をいただいている鈴木卓也さんという方が波伝谷に住んでおられて、津波後住居を移されていますが、鳥類のモニタリングや民俗学的な調査を行っている専門家がいることが大きい意味を持っています。
そうした背景があり、戸倉地区の谷戸のひとつで貴重な湿地が見られた寺浜地区の方に相談したところ土地を所有あるいは管理しておられる阿部さんを紹介していただき、以前から低農薬での田んぼづくりなどにも理解があり、直接会ってご説明したところご快諾をいただき、田んぼを貸していただけることになりました。いくつかの田んぼのうち一枚は波伝谷の植物の移植先として、他はボランティアによる酒米づくりの田んぼとして活用されることになりました。現在では、NPO法人南三陸復興推進ネットワークの地元の若いメンバーが中心となりボランティアで稲作を行っています。
今年の3月に気仙沼土木事務所に復旧計画について問い合わせたとこ、5月には復旧道路の工事に入りたいとのことでした。そこで、波伝谷の湿地植物の移植作業は、急遽4月に実施することになりました。
移植にあたっては、国立科学博物館の田中法生さんに立ち会っていただきました。
移植は波伝谷の泥を一定の範囲でスコップで掘り取り、寺浜に設定した3m×3mの範囲に広げて移すという単純な方法です。
移植後のモニタリング調査に当たっては、宮城大学の神宮字先生にご協力いただき1ヶ月に1度、植生や昆虫類の調査を実施していただくのと泥の一部を持ち帰り、水位、水温、光条件などを変えてどんな植物が成長するかをみる域外実験を実施していただくことになりました。
▲移植した植物の調査手法について打合せをする宮城大学・神宮司さんと朱宮(2014年7月)。
最終的に、波伝谷から優占種の異なる3カ所(P1ミズアオイ群落、P2ミズオオバコ群落、P3コウキヤガラ群落)から泥を持ち出し、1枚の田んぼにそれぞれ3カ所に分けて泥をまき、残りの3カ所は移植前の状態を残して何もしない対照区(コントロール)を設置したので合計12カ所のプロットをモニタリングすることにしました。これにより、移植後の復元状況を比較検討することができるようになります。また、調査の際には、おそらく復元した植物の競争相手となる可能性があるヨシ、ガマ、アメリアカセンダングサなどを除去する作業も行いました。
移植作業から4カ月経った8月22~25日に行った調査は、12カ所のプロットごとに植生調査を行い復元状況を確認することが目的でした。特に絶滅危惧種となっているミズアオイやミズオオバコがちゃんと定着しているか確認をしたいと思っていました。
その結果、P1のミズアオイが優占していた群落からとった泥をまいた場所からだけミズアオイが写真のように花を咲かせていることが確認できました。
▲P1から泥を移植したプロットで8月23日に確認されたミズアオイ(寺浜)
去年の調査から寺浜にミズアオイは確認されていなかったので、このミズアオイは、移植成功の標徴種であり確実に波伝谷から移植によってもってこられ、定着した個体であると考えられるので、目標としている種が見られたという点でこれは朗報です。
ただし、すべての構成種が移植によって定着していたわけではなく昨年の調査で観察された他の構成種、特にフサモ、トリゲモといった水草類は観察されませんでした。
また、ミズオオバコは観察されましたが何もしていない対照区(コントロール)でのみ だったのでもともと寺浜にあったものだと考えられました。それと、シダ植物のイチョウウキゴケはまったく観察されませんでした。
絶滅危惧種の保全という観点からは、少なくとも工事によって失われる可能性がある種群を移植できたこと、また、目標としていた種の一部が定着していたことが確認できたという点で第一段階は一部成功したというところでしょうか。 ヨシやガマをある程度除去していますが、放置すれば数年でヨシ群落に変わってしまう可能性があります。また、すべての構成種が確認できたわけではありません。今後もしばらくモニタリング調査を継続し、稲作と共存できるありようを試行錯誤していきたいと思います。
▲右:手前が復田したたんぼ、奥が移植地(2014年7月撮影)。右からNACS-J・朱宮、このプロジェクトにご協力くださっている地権者の阿部氏、慶応大学の大沼教授、南三陸町役場の平井氏。