「堤防周辺は『死の海』に」
NACS-J研究員・程木義邦執筆(熊本日日新聞社の許可を得て転載)
農水省が諫早湾干拓事業の影響を調べるために行っている諫早湾環境モニタリング調査によると、調整池内では水中の栄養塩(チッソやリンなど)や、COD(化学的酸素要求量、水中の有機物量の指標)が増加する傾向にあるものの、堤防外の海域では増えておらず、海域への影響はないとしている。それでは、調整池から排出された有機物や懸濁物(濁りの素)はどこへ行ったのだろうか? 我々の調査で有機物は堤防外で海底に沈み、生物のすめない貧酸素の海を作り出していることがわかった。
諫早湾閉め切り前は、干潟で分解されていた富栄養の水は、今も調整池からほぼ毎日、排出されている。河口域の研究などから、淡水に含まれる懸濁物は、海水に触れると集まり大きなかたまりとなって、沈殿しやすくなることが知られている。調整池の水も海水に触れて有機物などが固まり、堆(たい)積しているのでは、と考えられた。
そこで日本自然保護協会は3月、調整池と堤防外で堆積物を調査。調整池内よりも諫早湾海域の方が海底の汚れが進んでいる、という予想もしなかった事実が明らかになった。
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海底の泥は調整池よりも潮受け堤防外、特に堤防付近で最も厚く、底泥に含まれる有機物量も堤防外のほうが高かった。
諫早湾南側排水門から約250メートル付近の海底から採取した泥。右は表面に近く茶色だが、中は酸素を含まず真っ黒だ |
海底から採取した底泥の表面は茶色だが、上層の泥を1~2センチ取り除くと、真っ黒な泥が現れた。酸素のない嫌気的な泥特有のいやなにおいだ。鉄は酸素があると茶色の酸化鉄となり、酸素のない所では黒い硫化鉄になる。黒い泥は、泥の中が生物のすめない無酸素状態となっていることを示す。さらに困ったことに、こうした泥があると海底で有機汚濁が進み、夏季には「貧酸素水塊」を作り出す可能性がある。
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貧酸素水塊とは、魚などの生息に必要な、酸素の溶けている量が少ない水。いったん貧酸素水塊が発生すると、生物は酸素欠乏状態になり、ひどい場合は窒息死する。
酸素濃度が2ミリグラム以下になると底生生物に影響が出ると言われ、水を浄化する貝などの底生生物が死ねば、海の浄化機能はさらに減少、水質・底質の悪化が進む。
貧酸素水塊の発生する仕組みはこうだ。海底に有機物が堆積すると、海底の泥にすむバクテリアが有機物を活発に分解し、水中の酸素を消費する。消費速度は水温が高くなる夏に特に大きく、底に酸素の少ない海水ができる。
一方、夏には表層の水が温められ「水温成層」と呼ばれる海水温の二層構造ができる。ふろに入り、上は熱いのに下は冷たくて驚くことがあるが、水は温度が高いと比重が軽く、冷たい下層の水と混じらない。
海水の表層には空気中から酸素が十分に溶け込む。しかし水温成層があると下層に酸素を含んだ海水が届かなくなり、貧酸素水塊ができやすい。
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貧酸素水塊ができやすい夏季の今年8月5~7日に、発生状況を調査した。海水は1リットル当たり、6ミリグラム前後の酸素を溶かすことができる。表層では
ほとんどの調査地点で5~7ミリグラムとほぼ飽和濃度。ところが貝などが生息する底層(海底から0.5~1メートル)の酸素濃度は極端に低い場所があり、
大規模な貧酸素水塊が形成されていることが明らかになった(図参照)。
諫早湾奥部では、最も低い地点で0.53ミリグラムとほぼ無酸素状態。1ミリグラム以下の値は広い範囲で観測された。
貧酸素水塊が発生する原因としては、干潟が消え水質・底質が悪化したことに加え、諫早湾内の潮流が弱まったことも大きな原因と考えられる。
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潮流は潮受け堤防閉め切り後、大きく変化し、諫早湾内では11~90%減少した(図参照)。
※この図はNACS-Jのものです
潮受け堤防建設前は、速い潮流が、層が生じた海水を強くかき混ぜ、底層に酸素を供給していたと推測される。ふろに例えれば、諫早湾の潮流は「かき混ぜ棒」の役割をしていた。しかし、現在はかくはん能力が低下し、諫早湾内は「よどんだ」状態だ。
底層の貧酸素化は有害赤潮発生の一因となっていると報告されている。貧酸素水塊は諫早湾内の環境の悪循環を加速させる歯車となっている。
悪循環を止めるには、干潟を再生し浄化能力を取り戻すことだ。潮受堤防を撤去し、諫早湾内の潮流を元の状態に戻すことしかないと思われる。