特集「生物多様性への道のり」その2 それは尾瀬から始まった
景観・学術的価値の主張 <プリザベーション>
今でこそ尾瀬は年間100万人もの人々が”観光”に向かう場となってしまったが、つい100年前まで人を寄せつけない”秘境”だった。
そこに発電ダム計画が早くも1903年(明36)に持ちあがった。尾瀬はまさに日本の原生自然と近代化=「開発」とがぶつかる最初の舞台だあった。「自然保護」という考え方・活動が産声を上げ育ったのがここだったことも必然だったかもしれない。産声を上げた主が日本自然保護協会の前身、「尾瀬保存期成同盟」であった。
期成同盟は、戦後の1948(昭23)年に再浮上した尾瀬ヶ原湿原を水没させる発電ダム計画に対抗するために結成された。同盟ができる前にはいわゆる「コケか電気か」論争が、なんと通産省と文部省・厚生省との間で戦わされた。興味深いのは、食うや食わずの時代に「コケ」擁護論がその根拠を学術上・観光上の価値に置いて保存すべきとしたことだ。
日本の自然保護制度の出発点は戦前の「史蹟名勝天然記念物保存法」(1919(大8)年)に遡るが、昭和初期から文部省は尾瀬の貴重さを世にアピールし続け、保存すべき理由として 1. 風景的価値、2. 学術的価値、3.公園的利用価値などを挙げた。尾瀬から生まれた日本の自然保護の出発点が、文部官僚たちのこのような”価値への情熱”にあったことは事実といえる。その特徴は、天然記念物を指定し保護する主体ゆえに”希少の価値”を”保存”する「天然記念物」として保存するという、今で言う「プロテクション」の初歩的なものだった。
政府内で2省が押され気味となると、危機感を抱いた知識人たちがこれに合流して「尾瀬保存期成同盟」を1949年(昭24)に発足させたのである。当然にその思想は文部省のものを引き継ぎ、綱領には「日光国立公園尾瀬ヶ原一帯の地は比類なき自然景観のうちに貴重な学術的資料を秘める世界的存在であることをせん明し、これを水力開発計画の実施による破壊から救い、後代のため、永久に保存して国立公園の重要な使命である自然尊重精神の普及並びに学術資料保存に資し、併せて観光資源の確保を図る」とあった。
このような出発点をかえりみると、名所旧跡を保存し景勝の地をあがめるという日本に伝統的にあった感性が生きていること、一方、近代化とともに採り入れた学術的な新しい価値軸でそれを裏づけようとしたことが見てとれる。