【特集】地球へつなぐ大実験「コリドー」(その3)緑の回廊はどのように設定されるか 秩父山地
会報『自然保護』No.453(2001年1/2月号)より転載
秩父山地は、鮮やかな紅葉の色彩に山のエネルギーがあふれ出ているかのようだった。今年は、ブナ科堅果全体が7年ぶりのブナの大豊作年だ。ブナの木は1ヘクタール当たり3トンもの種をつける。ブナの実は、ツキノワグマも鳥も虫も大好物。今秋は、ブナにつられて渡り鳥アトリの群れもやってきた。
ここは東京大学演習林の森。秩父の国有林に隣接しているため、事実上の保護林として国有林の緑の回廊と一体をなす位置にある重要な森である。
林野政策の大転換
「緑の回廊は、森林生態系を守ろうという観点から、野生生物の移動経路を確保するな どによって生物多様性の保全を図ろうというものです」と、説明するのは、林野庁国有林野部経営企画課長の辻健治さん(写真)だ。さらに辻さんは、今回の林野庁の改革で国有林の5割を占めていた木材生産林が2割に減り、代わって国土や水源、森林生態系の保全の ための公益林が8割まで増えたと、大胆に逆転していることを強調した。緑の回廊は、刷新後の林野庁が行う期待の事業なのだ。
林野庁は、98年10月、自ら「抜本的改革」と呼ぶ大変革を行った。経営管理の方針を、木材生産中心から公益的機能の重視に転換するとともに、今までの独立採算制でなく、一般会計からの繰り入れを前提とした会計制度に移行するなどの内容だ。低迷する国産材とすすむ森林荒廃、そして3兆円もの累積赤字という難題をかかえ、庁としての最後の生き残り策といってもいい。
「90年から指定している全国26カ所の森林生態系保護地域やその他の保護林を緑の回廊でつないで森林生態系をより効果的に機能させたい」と言うように、断絶させた地域の野生生物の移動経路を確保することとともに、森の生態系の機能回復が狙いだ。
「緑の回廊が実際に森林生態系の中でどう働くかは、十分な知見がないためわからないところも多いのですが、とりあえず国有林で試験的にやってみようということです」。設定の根拠となるデータを積み上げるにはそれだけで膨大な時間がかかってしまい設定が遅れる。それが実施に踏み切った理由である。「この場合、重要なのがモニタリングなどのデータ集積で、それによって計画を軌道修正していきます」。
▲秩父「緑の回廊」の全景(提供・関東森林管理局東京分局。撮影・日本林業技術協会
緑の回廊の設定は、国有林が多いなど条件の整った地域から順次立ち上げ、民有林が多い地域では所有者との調整を図りながら協力を仰いでいくことになる。具体的にどこからどこまでを回廊とするかといった場所の線引きは、各森林管理局ごとに設けられる設定委員会が審議して森林管理局長に答申し、森林管理局長が決定する。
動物への効果は未解明
「森林生物遺伝資源保存林という新たな考えに基づく保護地域を設定するといった林野庁の方針転換は評価しています。ばらばらに設定してきた保護林をまとめて考えると いうのもいい方向だとは思っています。ただし、新たに回廊を設定するからには、どことどこをどう結ぶかにかかわる目的が明確であるべきですが、秩父の設定にはそれが見られず、現状の国有林をそのまま回廊と名付けただけです。それに国有林である尾根部分は亜高山性の針葉樹が生えている場所で、これまでもクマはそれこそ通路程度には使っていますが人間が決めようとする設定区分とは関係なく歩き回っています」。
秩父の回廊は、多様な生物種が対象となるように、食物連鎖の比較的上位にあり行動圏 も広いツキノワグマに着目して設定している。だが、石田さんは、元来のコリドーの考え方から見ると、この回廊部分だけではツキノワグマに対してはあまり実態を伴っていないと指摘する。また、設定場所に対する注文としては、尾根筋は独特の生態系を有する場所なので、実際に動物にとってすみやすい里山部分に設定するに越したことはない。しかし、秩父の国有林のほとんどが尾根に位置しているため、里に回廊を設定するのは難しい。
「秩父のクマは小柄で、夏に捕獲した最大のものでも体重は80キロ足らずです。でも、今年は、ミズナラやブナが豊作なので冬眠するまでには100キロを超えているクマも多いでしょう」。石田さんはうれしそうだが、野生動物にとって食物を探し生き延びることは並み大抵ではないということだ。秩父演習林一帯には推定で50頭のクマが生息する。彼らの行動圏は、定着性の強いメスで7~8平方キロ、オスは広い範囲を動き回る。「私が発信機による追跡調査で行動範囲が把握できたのは、1頭の足かけ3年についてだけで、その他は9キロ離れた山梨県塩山市と25キロ離れた長野県北相木村で有害駆除によって殺されたことを知らせてもらっただけです」
▲東京大学秩父演習林内に設置しているツキノワグマのわなを見回る石田健さん(東京大学)。秩父の「緑の回廊」設定委員の1人でもある。
▲クマが餌を食べるときに枝を重ねてできたクマ棚が、空高く見上げた梢近くに見える。秩父演習林内の広葉樹林には、ツキノワグマの餌となるミズナラやブナの木が豊富にある。これらのドングリ調査も石田さんの研究テーマ。
移動経路を知ることが今後の課題だという。一般の人がクマを目撃してもそれを報告するシステムがなく、情報が集まりにくいのが現状だ。野生動物の生態でわかっている事実は思ったよりはるかに少ない、だからこうした調査がもっと必要なのだと石田さんは話す。林野庁が説明したいと考えているコリドーの機能は、専門家にも簡単に解明できることではないようだ。
野生動物被害を心配する声も
「秩父の国有林は、天然林率が86パーセントと高いのが特徴で、鳥獣保護区であり、また地形的に交通の便がよくないため野生動物の生息が守られてきたこと、第三者の権利が含まれている分収林などがないことなどが、ここで緑の回廊の設定がいち早くすすんでいる理由です」
関東森林管理局東京分局計画二部計画課長の井田篤雄さんは、回廊の設定作業が始まる前、説明のためまず民有林の所有者の家を訪れた。地元の人が野生動物の農林被害が拡大することを心配し、コリドー設定に反対すると予想されたからだ。実際、「シカが植林地の大切な芽を食べた」「サルやイノシシが畑の作物を食い荒した」といった被害を訴える声が大きかった。コリドー設定の意義はおおむね理解してもらえたものの、被害が増えるから絶対に反対という人もいた。
▲秩父「緑の回廊」内の森林1
▲秩父「緑の回廊」内の森林2
「国有林は原生的なものが残っている奥山が多いので、水源や生態系を守るのはいいことじゃないかと思います。コリドーの趣旨には賛成していますが、地元の民有林をコリド ーに提供するかどうかについては、もう少し先が見えてこないと、すぐにやるということにはならないと思います」
モニタリングに大きな可能性
「回廊は招かれざる客とされている生物も通ります。農林被害を出す鳥獣、とくにシカ、サル、イノシシ。ツキノワグマも例外ではなく、クマの場合は特定の個体ということになります。丹沢山地と富士山周辺地域を緑の回廊で結ぶという案もあるそうですが、それが機能するとしたら、今はシカ被害のない富士山周辺地域へシカを呼び込むことにもなります。コリドーには、こうした特定の動物や動物の病気などを通さないようにする『関所』のような機能も必要でしょう」
「関所」とはコリドーを管理する体制づくりだと石田さんは説明する。管理の基礎になるのは、もちろん動物たちがコリドーをどう使っているかのデータで、そのためにはモニタリングを徹底しなければならない。こうしたモニタリング活動やコリドーを管理していくための人材とシステムづくりがキーポイントになる。それを目的にすれば、職員の再教 育などを行うことで人材を育成でき、実はこうした副産物のほうがコリドー計画で一番期待するところなのだという。
▲秩父山地「緑の回廊」設定予定地。一昨年に新たに指定された森林生物遺伝資源保存林を中心に両端に細長く回廊が延びている。また隣接する東京大学講習林は多くの野生生物の生息地となっている。
人材の育成について林野庁も前出の辻経営企画課長が「これからは今までにない能力が職員に要求されるようになります」と受け止めている。専門分野に詳しいNGOや環境 教育関係者との交流を図ることで「林業の専門家から、野生生物のセミプロへ」の教育を行っていく方針だ。
「モニタリングで得られるデータは、生態系にとってよいものばかりとは限らないでしょう。その場合、よいものも悪いものもすべて公開し情報を共有することが基本です。そ して、よくないという結果が出れば話し合った上で止めることもあります」(辻経営企画課長)
緑の回廊が成功するかどうかは、モニタリングが十分できるかどうかにかかっている。緑の回廊の設定がもたらす波及効果としてはこれは重要なことだろう。
石田さんは、ツキノワグマの生態をモニタリングする具体的な手法をいくつか挙げてくれた。緑の回廊のモニタリングの実施に当たっては、ツキノワグマだけでなく、こうした専門家のアドバイスに沿ったモニタリング方法を確立し、一般の人たちでもできるマニュアルをつくり公開していく方針だ。そうすれば、環境教育の一環として子どもたちが調査したり、ボランテイアの力を借りることもできるだろう。
庁内には、知見が不十分で壮大な仮説のもとに設定作業がすすめられていると心配する声もあるようだが、それでもあえて試そうという姿勢には、累積赤字の処理過程や大幅な リストラを経て官庁としての生き残りをかけて国民の理解を得ようとする切実さも感じられる。
緑の回廊設定は思いきった実験かもしれないが、そこから得られるものは小さくないだろう。これを契機に、官と民という立場を越えて、環境を共に守り考えようとする方向 に社会全体が変わっていく大きな可能性が秘められている。森林にかかわる多様な立場の人たちが協力して緑の回廊は一つにつながっていく。その一員として私たちも協力を惜しみたくないものだ。
(島口まさの)
山とまちをつなぐ─ 林野庁・企業・NGO
パートナーシップ始まる
緑の回廊は、生物の多様性の保全という位置づけだが、流域管理という位置づけで林野庁は別の試みも準備中だ。2001年度のスタートを目指している「流域管理推進アク ションプログラム」。これは、山と都市を結び森を活性化しようというもので、プログラムを一緒に立ち上げるNGOを募っている。担当の流域管理指導官の宮澤俊輔さんに聞いた。
流域管理推進アクションプランプログラムとは?
林業では昔から川上と川下が1本の川でつながっていました。もう一度流域を一つの単位として、山の人とまちの製材所や建築家などがいっしょに地域の林業おこしに取り組も うというのが流域管理発足当時(H2年)の趣旨です。その後、方針を一部修正し(H9年)、環境保全や教育といった公益的な役割も組み込みました。現在では、たとえば、森に親しんだり、子どもたちの総合的な学習時間に森林を活用するなどさまざまなニーズがあると思います。こうしたニーズについて各市町村、NGO、企業の方などから広く意見を聞き、地域ごとの方向性を絞り込んで国有林を活用した個々のプロジェクトを立ち上げていこうという計画です。
そこでのNGOとのパートナーシップとは?
都会の人と山を結ぶ重要な位置づけとしてNGOとのパートナーシップを期待しています。たとえば、森で自然観察会を開催したり、環境教育に携わる方がわかり やすい言葉で子どもたちの森への興味を引き出すとか。われわれは全国750万ヘクタールのフィールド、つまり国有林を活用していただく、イベントなどを共同で実施する、またノウハウを交換するといったことで協力できます。
林野庁と企業とNGOの協力とはどんなことですか?
アクションプログラムにNGOがいろいろな企画書や要望を持ち込んだとき、すばらしいアイデアだが受益者が偏りすぎて国自らによる実施がむずかしいと判断したような場合、自然保護活動を支援している企業や財団にそのNGOを紹介して仲を取り持つことができるのではないかと考えています。アクションプログラムを公開し、企業はそこをチェックすることで取り組みがわかるしくみにしたいと思っています。
NGOとはいままで対立する関係にありましたが?
木を伐る伐らないという問題は森林計画制度の意見聴取で言っていただいて、アクショ ンプログラムでは前向きに協力し合って取り組みましょうということです。非常に緊張した関係も持ちながら、ある場面では共に行動するという柔軟な関係を築いていきたいですね。現場の反対運動で苦労してきた職員に急に仲良くやれというのはかなり難しいんですが、実際に各地の森林管理局がどう対応するのか心配なところではあるんです(笑)。まずは一緒に話をしたり、山を歩くところから出発でしょうか。
国の事業に市民やNGOがアイデアや意見を出して連携し、資金面で時には一般企業の協力を求める。こうした試みは、21世紀の公共事業のあり方のモデルの一つとなるかもしれない。
(島口まさの)
特集『地球へつなぐ大実験「コリドー」』
<目次>