日本のプロテクション(やさしくわかる自然保護5)
月刊『自然保護』No.429(1998年9月号)に掲載された、村杉事務局長による自然保護に関する基礎知識の解説を転載しました。
自然保護に関する考え方や概念それに用語など、基礎的なデータベースとしてご活用ください。各情報は発表当時のままのため、人名の肩書き等が現在とは異なる場合があります。
やさしくわかる自然保護 もくじ
日本のプロテクション ~尾瀬にはじまった自然保護運動~
戦後、しばらくの間、日本での自然保護運動はプロテクションが中心であった。
それには日本自然保護協会(以下、協会)の活動を紹介しないわけにはいかない。そこで今回から2回にわたって、協会が創立30年を記念して刊行した『自然保護のあゆみ』※1から、協会のプロテクション的な活動を振り返ることにしよう。
その運動の出発点が尾瀬ケ原電源開発問題、協会の前身である尾瀬保存期成同盟の誕生のきっかけとなった出来事である。
尾瀬ケ原のダム計画は明治時代(1903年)に始まったが、具体化されぬまま戦争で中断されていた。それが戦後の昭和23年(1948)にいち早く再燃、昭和24年(1949)前半までにいくつかの機関が尾瀬ケ原の電源開発計画を次々と発表したため、学者・著述家・山岳画家・山小屋のオーナーなど尾瀬を愛する人々30名が急遽、1949年10月に尾瀬保存期成同盟(以下、同盟)という組織を結成して、この計画阻止のために立ち上がった。
運動方法は国会やGHQへの請願、マスコミへのアピール、署名活動、講演会、映画会など、これらを通じて高層湿原特有の美しい景観とめずらしい動植物の保存を広く世論に訴えている。また、国会に出された請願文のなかに「尾瀬保存期成同盟は自然を保護してその恩恵の均霑化を図り・・・」として、はじめて「自然保護」の概念がしるされていることにも注目したい。
およそ1年間にわたる同盟の活動で、尾瀬ケ原保存の運動の効果が少しずつ現れたが、なんといっても保存運動にとって好都合だったのは、尾瀬の電源開発を押しすすめてきた電力会社そのものが電力業界再編成の波にのみ込まれ、開発を一時中断せざるを得なくなったことである。これを機に同盟は、同盟としての活動を終わる。
昭和29年(1954)年ごろから尾瀬ケ原は再び電源開発の嵐に翻弄されるが、今度はミズバショウブームによる観光客の増大を背景に尾瀬車道問題も浮上、これには同盟を中核にしてできた日本自然保護協会が「尾瀬の自然を守る会」などとともに立ち向かうことになる。尾瀬の保存に関して協会が提出した請願書などは、他の組織との連名も併せると全部で計8通に及んだ※2。
かくして、何度かの危機を乗り越えて尾瀬ケ原は水没を免れ、周辺の道路建設は中止されたものの、現在はその美しい景観を求めて押し寄せる観光客が笑顔で環境破壊をしているのは皮肉な話だ。
(村杉幸子・NACS-J事務局長)
<参考資料>
※1 (財)日本自然保護協会(1985)「自然保護のあゆみ」日本自然保護協会30年史編集委員会
※2 尾瀬ケ原の保存に関する請願書(昭和24年) 、
尾瀬ケ原の電源開発計画に関する反対陳情書(昭和30年) 、
尾瀬ケ原水力発電計画に関する陳情書(昭和41年) 、
尾瀬周辺の道路問題に関する公開質問(昭和47年) 、
尾瀬一ノ瀬駐車場建設計画反対意見書(昭和49年) 、
奥鬼怒スーパー林道建設事業許可に関する質問状(昭和57年) 、
尾瀬ケ原・見晴地区の排水対策計画に関する意見書(平成2年) 、
尾瀬の自然保護と利用のあり方(平成6年)